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コラム「ボボたちのパリ」第2回

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ボボたちのパリ

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第2回:「移民系」とは?


1954年名古屋市生まれ。80年毎日新聞入社。甲府支局、東京社会部、外信部、90-93年アフリカ特派員ハラレ支局長、93-95年同ヨハネスブルク支局長、99-03年ウィーン支局長、03-05年外信部副部長、05-09年パリ支局長、09年4月から現職。著作 『アフリカの底流を読む』(ちくま新書)、『南アフリカ 白人帝国の終焉』(第三書館)。

郊外暴動に参加したのはどんな若者だったのか。

「中学卒業後、就職のため数え切れないほどの願書を出したが、返事は1つも来なかった。だから見ての通り、昼間からこうしてブラブラさ」。暴動の発端となったパリ東郊クリーシー・ス・ボア市南隣のモンフェルメーユ市の団地「ボスケ」の前で、レスコ・ブバ(18)と名乗ったジャージ姿の若者は、私の問いに気だるそうに答えた。

若者たちは何をしている訳でもなく、団地の入り口でただたむろっていた。1人に話しを聞き始めると、やがて10人以上が集まって来た。(当時まだ珍しかった)デジカメで彼らの写真を撮って画像を見せると、皆興味深そうに眺めていた。ところが、背後でささやく次の言葉を聴いたとたん、背筋に寒気が走った。
「オイ、カメラかっぱらおうぜ!」。別の若者が「俺たちのことを宣伝してくれるんだから手を出すな」と諌めたが、私はそれ以上その場に居るのは危険と感じて、足早に移動した。

ボスケ団地の若者グループ団地は日本の郊外の団地に比べて、特にみすぼらしいわけでも老朽化しているわけでもない。むしろゆったりしたスペースに建ち、1戸の面積も広いくらいだ。問題は職のないことから来る若者たちの絶望感と倦怠感だった。若者たちは日常生活に不満を募らせており、他にすることがなければ暴徒に参加しやすい環境が常にあった。未成年の中高生も多く、暴動参加については「昼はプレイステーションで遊び、夕方になったら集合し、火炎瓶を手に機動隊との対決に出かけるんだ」と話す様子がしばしば報じられた。

暴動の背景には、仏社会で移民とその子孫が一般のフランス人と「別世界」で暮らしている点と、彼らに就職や生活への不満が鬱積している点が指摘された。暴動に参加した若者たちは、移民の第二、第三世代だった。

フランスには「自由、平等、友愛」の理念や反ナチスの経験などから、国民を民族別に色分けする公式統計がなかった。国勢調査の質問基準は「仏国籍を持っているか否か」と「仏領土内で生まれたか否か」で、民族や出自の問いはない。また、「フランスで生まれ5年以上暮らす」などの条件を満たせば移民ではなく「フランス国民」になれる。「フランス国外で生まれ、出世時に仏国籍を持っていなかった人」については「移民」とし、99年国勢調査によると、総人口5852万人中計431万人いた。暴動で問題となった若者の多くは「外国で生まれた後にフランスに移り住み、仏国籍を取った移民の2世、3世」で、肌の色とは無関係に既に「フランス人」となっている人々だった。彼らは親たちと違って移民ではく、れっきとした「フランス人」なのだ。

ただ、白人のフランス人と異なって移民の子孫である点から、私は原稿で「移民系」と表記した。白人でもたとえばハンガリー移民2世であるサルコジ氏は同じ「移民系」なのだが、彼らが「移民系」とは呼ばれることはなかった。仏社会ではロシアであろうとアルメニアであろうと、欧州系白人移民の子孫への差別はほとんどなく、「移民系」と呼ばれるか否かは、突き詰めれば肌の色の違いだった。

フランス政府は19世紀末の1894年から労働者向けに低所得者用の郊外住宅建設を始め、共産主義の影響から「赤い郊外」と呼ばれた。ドゴール時代の「栄光の30年」と呼ばれた経済成長期(1945年〜75年)には大量の移民を受け入れ、彼らのために郊外に大規模団地を建設。移民は当初ポルトガル、スペイン、イタリアなど南欧系が多かったが、彼らは次第により街中の住宅に移り、後から来たアラブ・アフリカ系移民が郊外の団地を独占するようになった。

フランスはかつて北アフリカ・マグレブ地方(アルジェリア、チュニジア、モロッコなど)や黒人アフリカ(セネガル、コートジボワールなど)に広大な植民地を持ち、彼らには植民地ゆえに言葉の障害が少なく、仏政府も経済絶頂期には受け入れを優遇した。パリだけでなく主要都市郊外にコンクリートの公共団地を次々建設し、住居を確保した。

フランスには右派左派を問わず「自由、平等、友愛」の建国の理想を尊重し、仏社会に融合しようとする意思のある者は受け入れる気風が根付いており、多数派の白人たちは長年移民とその子孫ら(総人口6200万人中600万人前後と推計される)がこの路線に沿って仏社会に溶け込んでいると信じていた。あるいは信じ込み、気にも留めなかった。

ところが、彼らの多くは実際には故国での宗教や言語を維持したまま郊外の団地で独自の世界に暮らし、そのことがまた子孫の就職を一層難しくして来た。当時のフランスの平均失業率は9.5%と日本の倍近くもあった中、移民系の就職の機会は一層難しく、郊外の団地での失業率は部分的には40%以上とされ、1人当たり年収は10500ユーロ(約126万円)で仏平均より40%低かった。

これら団地は民族別居住を意図したものではなかったが、1世紀間の経緯の中で結果として一般仏社会と隔離した「ゲットー」が出現していた。移民系住民を一般仏社会に融和させるには、郊外団地の解体が有効策だが、例えばパリ市内の住宅費は高く、移民系住民に選択の余地はなかった。

犯罪心理学者のアラン・バウワー氏は、郊外暴動について「フランスが移民らに提示してきた融和策と、果たせないまま失敗し続けてきた約束との矛盾が噴出した結果だ。移民2世、3世はある意味で仏社会に融和してきている。政府に対抗する形で今回のように暴動を爆発させるやり方は、仏社会でこれまで頻発してきた労働争議などを見て育った影響もあるのではないか。仏社会は過去30年間、こうしたことを避けようと論議はしてきたが、政治家たちはいつも『現実ではない』『それほど深刻でもない』『私の責任ではない』と繰り返すばかりだった」と分析した。

【同時掲載コラム】 「Mainichi Daily News 編集長の目



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