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コラム「世界に魅せられて」第4回

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第4回:瓦礫の中に芽生えた希望

佐藤 慧さん

studioAFTERMODE 所属
フィールドエディター/ジャーナリスト

佐藤 慧


国際協力の現場に携わり、アフリカ、中米などで経験を積む。
世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると実感し、命の価値や愛を伝える手段としてのジャーナリズムに希望を託して活動を開始。
言葉を探しつつ、風に吹かれ、根無し草のように世界を漂いながら、国家、人種、宗教を超えて、 人と人との心の繋がりを探求し、それを伝えていく。

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数百の遺体の間を歩き、あの優しい母の笑顔を探すことは拷問に近かった。3月11日、突如として起こった大地震に、東北の海はその頭をもたげ、未曾有の大津波は三陸の町々を呑み込んだ。

ひとつひとつ棺の中の顔を覗き込み、そこに母の面影がないことに安堵する。どの顔も苦痛に歪んでいる。素朴な生活が一瞬にして波にさらわれ、瓦礫と泥土の下敷きとなったのだ。僕の両親の住んでいた町、陸前高田市は、その市街地が確認不可能なほどに叩き潰されていた。目の前にうず高く積まれた瓦礫の、そのひとつひとつが人間の営みをバラバラにしたものだと思うと目眩がした。

僕は「任意NPOみんつな」の現地調査員として、3月19日から現地に入っていた。本当はもっと早く来たかったのだが、ガソリン不足でなかなか車が手配出来なかった。瓦礫の中に続く道を縫うように走り、各避難所や災害対策本部を訪問。一体現地ではどのような支援が求められているのかを調査した。あちこちで自衛隊や消防、警察によって毎日何十もの遺体が引き上げられていた。素朴な生活が営まれていた商店街は姿を消し、人影一つなく、ただウミネコが悲しそうに鳴いていた。

その津波が東北沿岸部を襲った時、僕はアフリカのザンビア共和国にいた。コンゴ民主共和国に取材に出ていた僕は、次の取材に備えて隣国のザンビアで休んでいた。僕がその一報を受けたのは朝方のことだった。東北で地震が起こったらしい。僕は即座にニュースをチェックした。その時は、まさかこんなに大きな地震だとは思っていなかった。東北沖はもとより地震の多い地域。きっと今回もいつものような、少し建物を揺らす程度の地震だろう、そう思っていた。

インターネットで津波の被害状況を聞いた時、背筋が凍った。こんなに大きな津波が来たら陸前高田が無事であるはずがない。焦る気持ちとは裏腹に、陸前高田のニュースは中々出てこなかった。確実に被災しているはずなのに全く情報が出てこない、その事実は被害の大きさを物語っていた。CNNでは早くも特報が流れ、町ごと津波と泥土に押し流される様子が世界中に放送された。現実とは思えない映像。陳腐な表現だが、それはまるで映画のワンシーンのようだった。やっと陸前高田のニュースが入って来たとき、その名前の横には「壊滅」という文字が添えられていた。

即座に航空券を手配、緊急帰国することにした。同時に、日本では大切な仲間たちが早くも行動を起こし、被災地の復興支援をしようと「任意NPOみんつな」を立ち上げていた。「みんつな」とは皆(みん)なが繋(つな)がって津波(つな・み)をひっくり返そう、そういう想いから名付けられた。各地で募金活動を展開、全国に繋がる仲間の数は数百を越える。みな、この未曽有の大災害に対して何かをしたかったのだ。

なんとか車を手配し、岩手県までたどり着いた僕は、奇跡的に一命を取り留めた父のいる病院を目指していた。県立高田病院に勤務していた父は、4階にいながら首まで海水に浸かり、それでも患者の心肺蘇生に尽力した。その後屋上に避難、凍える夜を過ごした。翌日には自衛隊のヘリコプターで救出され、すぐに避難所の仮設診療所で働き始めた。数日後体調を崩し、盛岡市内の病院に入院した父と、僕はやっと再会することが出来た。いつも気丈な父は、この時ばかりは力なくうなだれていた。依然として母の安否が不明なのだ。近隣の人の目撃情報によると、母は11日の3時10分前後、自宅の前で2匹の犬を連れているところを目撃されている。地震発生から20分以上も経っている。おそらく母はうちで飼っている2匹の犬たちを迎えに戻ったのだろう。そこから先の消息は不明。母はボランティアで手話通訳などに携わっていた。放っておけない人たちのところに向かったのかもしれない。

父と一緒に陸前高田に戻り、復興支援のための調査をしながら母の消息を追った。きっと母はどこかの避難所で生きている、そう思っていた僕は、被災地の惨状を直接見るにつけ、その微かな希望を粉々に打ち砕かれた。余りにも想像を絶する光景。何が起こったのか把握出来ない。脳のどこかが麻痺していくのがわかる。目の前で起きていることが現実のことだとはどうしても思えなかった。自然の恐ろしさ、人間の脆さに打ちのめされる。

その日から何度も遺体安置所に通うことになった。時間が経つにつれ黒く変色し、生前の姿を失いつつある遺体を凝視するのは辛い作業だった。僕はここに母の姿を見つけたいのか、はたまた、いないことに安堵したいのか、自分が何をしたいのかわからないまま、黙々と遺体の顔を覗き続ける。死者数は日々更新され、その数字は大きくなっていくが、その数字ひとつひとつにひとりの人間の死と、愛するひとを失った悲しみが含まれていることを忘れてはいけない。

「夜中に毎日余震があるだろ?その度に目が覚めて朝まで眠れないんだ。これから先一体どうやって生きていけばいいのかと考えると不安でしょうがない。お先真っ暗だよ」。避難所暮らしをしている50代の男性は、半ば諦めの表情を浮かべながらそう呟いた。津波は三陸の産業も徹底的に破壊した。特に沿岸部の主要な産業である漁業は壊滅的なダメージを受け、その復旧には数年かかるとみられる。果たしてこれから先、どのような未来が待ち受けているのか、疲労と悲しみの中、人々は進むべき道を見失っていた。

そんな中、確実に復興への道を歩み始める人々もいた。自身も被災し愛する人を失いながらも、地域の再生に向けて休みなく働く人々、なんとか被災者の力になりたいと行動を起こした日本中、世界中の人々。震災は本当に悲しむべきことで、絶望的なほどに人々の心を傷つけたが、未来を照らす希望も生まれた。あらゆる災難と災いが飛び出したパンドラの箱に残されたのは希望だった。未曾有の危機の中、人々は改めて人間の可能性、優しさ、愛に想いを馳せ始めた。陸前高田の松原には、ただ一本、津波を耐え抜いた松が残っている。その松は、大切な仲間たちを失いながらも堂々とそびえていた。その不屈の精神、まっすぐに立つ姿を見て、人々はそれを「希望の松」と呼ぶ。希望とは、未来に足を進めていくことでしか得られないもの。今、みんなが繋がり、その未来に向けて歩んでいく。


あの津波から、たった一本残った「希望の松」。



この景色の中に、未だに千の骸が眠っている。



瓦礫と化した家から拾ってきた家族写真。父と母、ミミとチョビ。



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