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コラム「ボボたちのパリ」第3回

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ボボたちのパリ

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第3回:左右政権で貧富の差


1954年名古屋市生まれ。80年毎日新聞入社。甲府支局、東京社会部、外信部、90-93年アフリカ特派員ハラレ支局長、93-95年同ヨハネスブルク支局長、99-03年ウィーン支局長、03-05年外信部副部長、05-09年パリ支局長、09年4月から現職。著作 『アフリカの底流を読む』(ちくま新書)、『南アフリカ 白人帝国の終焉』(第三書館)。

■ 左右政権で貧富の差

「暴動はまた起きるだろう。そしたらオレもきっと参加する。当然だ」。
仏全国の暴動のきっかけとなったパリ東郊クリーシー・ス・ボア市のスーパー前でたむろしていた高校生、ルイク・マリマクドレン君(16)は、そう語気を強めた。暴動の際には近所の車を放火し、警察のゴム銃弾を右足に受け1週間のケガを負ったという。「オレはイスラム教徒じゃないが警察はモスクを攻撃し、友達の宗教を侮辱したんだ」と主張し、罪の意識はない。傍らのヤヤ・サンゴ君(16)も相槌を打った。

少年たち05年の暴動には、イスラム教過激派による扇動など、政治的背景を示す証拠は出てこなかった。参加者の多くは18歳以下の未成年で、警察の逮捕の対象外だった。動機については「移民系若者がちょっとしたきっかけで日常の不満を爆発させた」と指摘された。きっかけはサルコジ内相の発言への反発だったり、「皆がやっているから」だったりと、曖昧なものだった。

 


では、彼らの不満はどこから来るのか。彼らの住む団地の歴史や環境を見ると良く分かった。

クリーシー・ス・ボア市は人口2万8300人の典型的なパリの郊外ベッドタウンだ。市役所周辺には灰色にくすんだ高層・低層の団地が数十棟建ち並ぶ。パリまで15`で本来30分以内で行けるはずだが、郊外電車の駅までのバスは市内各地を循環するため30分もかかり、朝夕のラッシュ時にはバスも電車も満員の上に遅れがちで、結局パリまで1時間半かかってしまうという。平均失業率は23%で全国平均の2倍以上。市内には住宅ばかり建ち並び、求職者を受け入れる企業や工場がほとんどない。

同市のラミヤ・モンカシ広報部長によると、現在の団地は1950〜60年代の住宅不足時代に国が建てたもので、当初は「地下鉄と高速道が開通する計画」との触れ込みで多くの中産層が移り住んだ。ところが、計画は立ち消え、不動産価格は急落し、中産層は団地を叩き売ってパリなどに去った。その後徐々に中東アフリカ系移民が移り住み、築50年を超えて建物は老朽化。住民はほとんどが移民系というゲットーとなった。

東南隣のモンフェルメーユ市には団地は1カ所しかなく、西隣のルアンシー市には団地はない。この違いは両市が右派市長政権なのに対し、クリーシー・ス・ボア市が左派・社会党政権であることに起因していた。

低家賃住宅フランス政府は地方自治体に対し、財政の20%を低所得者用の低家賃住宅(HLM)建設費に当てる規定を設けている。ところが、罰金を払えばこの規定を免除される。低家賃住宅が事実上移民系住民のゲットー化している点から、右派市政は罰則金を払うことで低家賃住宅建設を避け、移民住民増を抑えていた。

 


左派市政は「移民系住民を差別しない」方針と、市内に企業が少なく税収が少ないことから罰則金が払える財政でない点から、規定通り低家賃住宅を建設し、結果的に多くの移民系住民を抱えていた。自治体の貧富が左右両派ではっきり分かれているのだ。

モンカシ広報部長は「若者の不満の一因は高失業率だが、市内に雇用先は少なく、市自体は雇用できない。せめてできるのは交通事情の改善や住宅改善となる」と話した。


■ 「宗教・民族問わず」の理念

暴動の背景にはさらに、フランスが国是として掲げる「非宗教性」が抱える社会矛盾も指摘された。

有名ブランドや高級料理で資本主義の先端を走る印象の強い仏社会は、実は「平等」にこだわり、かなり社会主義的な側面を持つ。税金は高いが年金は充実し、公教育は無料に近い。住宅政策にもこれが反映され、街中の高い家賃が払えない低所得層向けに、郊外団地が次々と建てられた。

ところが、こうした「平等」社会の背景にもう1つの注目点があった。「非宗教性」だ。フランスでは1789年の革命以降、「宗教は王政と結びついた旧勢力」として、「宗教を廃止はしないが政治とは分離すべき」と政教分離(ライシテ)の考えが定着して来た。米国では元首の就任式などで聖書に手を載せて宣誓するが、フランスにその伝統はない。04年に公立校でのイスラム教徒のスカーフ着用を禁じたのも「学校は非宗教を教える場」の考えに基いていた(イスラム教徒には宗教・表現の自由の制限と映り、対立した)。

このことは国民の間に「宗教、そしてそれにつながる出身民族について、公的に触れるべきではない」との暗黙の了解を生んできた。多数派の白人フランス人たちは長年、移民とその子孫らがこの了解に沿って「仏社会に溶け込んでいる」と信じていた。誰も表立って触れないため、実態は曖昧にされた。

しかし、彼らの多くは実際には故国での宗教や言語を維持したまま郊外の団地で独自の世界に暮らし、そのことがまた子孫の就職を一層難しくして来た。
背景には、

▽ 家庭が貧困な上子供が多く自宅に居場所がない
▽ 両親が離婚するなど家庭内教育が難しい
▽ 市財政逼迫の中で学校教育の施設や教師の質が低下
▽ 市内に警察署がなく治安が低下
▽ 映画館など若者のレジャー施設がない
▽ 就職面接で「93」「95」など居住地の郵便番号の末尾をみただけで採用側が差別する

---などの社会・経済的不備が指摘された。

数少ないアラブ系有力企業経営者のヤズィド・サベグ氏は「フランスでは民族や宗教で区別するのは『米国がすること』とされ、避けられてきた。しかし、民族別社会格差は歴然と存在し、仏社会はこの結果を認めようとしない。認めずしてどう改善できるのか」と強調した。

フランスは意図して矛盾を隠したのではない、ともいえる。平等と非宗教性を理想に掲げ、その実現の難しさと問題点に注意を払って来なかったという形だ。05年の暴動はこの現実を直視しなかったことへの警鐘となったが、非宗教性の歴史はあまりに永く、方針転換の声は届かないでいる。

【同時掲載コラム】 「Mainichi Daily News 編集長の目



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