世界人への一歩 (第1回)
第1回:試行錯誤
横浜国立大学経営学部4年(連載当時)
シャリポヴ・ウミド
2005年、母国ウズベキスタンのウェストミンスター国際大学経営学部入学。2006年、国費留学生として東京学国語大学日本語教育センター入学。2007年、横浜国立大学経営学部入学。現在に至る。卒業後は外資系金融機関勤務予定。大学時代は、日本語スピーチコンテストで優勝したり、学生広報サポーターとして活動。2010年マレーシアでの国連主催グローバル模擬国連(GMUN)参加など、学内外で活躍中。将来は金融のプロフェショナルになり、金融の側面から母国をはじめとする途上国の企業や経済をサポートし、より豊かな社会作りに貢献したい。
(2010年12月1日掲載)
私の母国はソ連の一国であったウズベキスタンです。ソ連が崩壊した1991年私は5歳で、ソ連の破壊という歴史的な事実は私の記憶にはありませんが、破壊後の環境や人々の考え方が激変している時代は私の記憶に新しいです。国営企業のみで形成されていた経済の民営化が進みました。社会主義の考え方が民主主義に変わりました。経済の変化が私の家族にも影響し、大学で講師を務めていた父親が仕事を変え、専業主婦でパートでしか働かなかった母親も正社員として働くようになりました。日本に例えると、明治維新と同じかもしれません。
当時の夢は、外交官になることでした。友達の夢が警察官や医者の中、外交官を志したのは母国や周りの社会の役に立てる人間になりたい気持ちと共に、ソ連破壊後、ディズニーの映画やアニメなど外国のポップカルチャーが流出してきたことで、外国に関心を持ち始めたからだと思います。この夢を追いかけ、小学生の時から英語に関心を持ち、勉強してきました。家族も私を応援してきてくれました。家庭が経済的に苦労していた時でも、母親がお金を節約し、私に英語の教科書を買ってくれたことを今でも新鮮に覚えています。
高校生になってから外交官になるには外国語のみならず他文化の経験も大切だと思い、留学することを自分の目標にしました。ところが私の留学の夢は簡単には叶わず、試行錯誤の繰り返しでした。私のような一般的な家庭にとっては、私費留学の負担が重過ぎて、奨学金を探すしかなかったのです。
私が留学プログラムに申し込んだのは高校一年生の時で、アメリカの高校への留学でした。選考は激戦でしたが、自分の英語能力について自信満々だった私は失敗する気が全くしませんでした。しかし結果として選考で落ち、その時の悔しさを言葉で表すのは難しいです。
3年生の時、私の高校とアメリカの高校との交換留学のプログラムに挑戦しました。ところが、今回はプログラムそのものが中止になり、2回目の挑戦も失敗になりました。失望から私を救ったのが母親の一言でした。「あなたの運命にはそう書かれているなら、留学はいつか絶対出来るはずよ。」この一言が力になり、再び自分の運命は自分の手で作るために私は動きだしたのです。
そして母国の大学に入学後二つの留学チャンスを手にしました。アメリカへの一年間の交換留学と五年間の日本の大学への留学プログラムでした。私は日本を選択しました。その一番大きな理由は、日本に対する好奇心でした。「せっかく留学するなら学問のみならず、出来るだけ文化や考え方なども勉強するべきだ。自分にとって謎の国である日本に行けば、より強い刺激を受け、より多くの発見があるはずだ。」こうして、私はこれから日本で自分にとって新しい発見をたくさんすると決意しました。
次回のコラムでは、19歳の私が日本に来てから何を経験し何を勉強したかについて話します。
▼来日前の大学の友人との送別会
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