アジアの熱風 (第19回)
第19回:イスラマバードの赤ひげ
西尾 英之(にしお ひでゆき)
1963年生まれ。87年毎日新聞入社。福島支局、社会部などを経て03年から特派員としてパキスタン、インド、タイの各国に駐在。12年4月から現職。
(2014年3月1日掲載)
夜の9時過ぎ、イスラマバード支局の警備員、ラシッドが部屋に飛び込んできた。「息子が大けがをした」。支局前の通りで大人用の自転車に乗って遊んでいた6歳の長男が、サドルから落ちて転倒したらしい。頭に傷があるようで顔が血だらけだ。大男のくせに気が小さく動転しきっているラシッドを落ち着かせ、とにかく医者に連れて行くことにした。
どこの病院に行くか。私が受診したことがあるのは郊外にある豪華な私立病院だけだ。近所には「24時間対応」をうたう国立総合病院もある。だがラシッドが選んだのは、薄暗い路地の奥にある、自身も通っているという診療所だった。
裸電球が照らす室内に入って思わず息をのんだ。大部屋の中心にベンチが置かれ、そこが待合室だ。ベンチに座りきれない患者は床に座って順番を待っている。診察室はなく、壁に沿って何人かのドクターが机を並べ、苦しげな息づかいの高齢者や赤ちゃんを診察している。
ラシッドの息子を治療したのは、パキスタン人に多い赤いあごひげを蓄えた、イスラム過激派の親玉のような風貌の医師だった。泣きじゃくる息子の肩を抱き何事か語りかけて慰め、手早く傷を調べる。「大したケガではない。縫合は必要ないよ」。父親にはウルドゥー語で、そして同行した私には英語で同じことを告げた。傷口を消毒し薬を塗って包帯を巻いて、30分ほどの治療が終わった。
会計の窓口などない。普段からカネのないラシッドに代わって払ってやるつもりだった私が「いくら」と聞くと、医師は不思議そうな顔をして「50ルピー」と答えた。
日本円にして50円ほど。安価だろうとは想像していたが、それにしても安い。日本のような国民皆保険制度のないこの国で、月給2500ルピーのラシッド一家がこの診療所を利用している理由がわかった。しかもラシッドによると普段は治療代は「つけ払い」だという。その場で費用について聞かれて、医師が不思議そうな顔をした理由もわかった。
医師は朝から夜遅くまでひっきりなしに訪れるカネのない患者たちの診察を続けているのだろう。落ち着いた包容力のある態度に「赤ひげ医師」という言葉を思い出さずにはいられなかった。
だが一方で、私は見てしまった。患者に使用した注射器が無造作に、多くの注射器が置かれたトレイに戻された。そして次の患者に、そのトレイからつまみ上げた注射器が使用された。注射器が消毒しないまま再利用されているのではないか? 肝炎やエイズ感染の恐れが頭に浮かび、私自身はこの診療所では受診できないと思った。
イスラマバードで私たち外国人が受診する総合病院は、ドクターはほぼ全員が米国や欧州で経験を積んだ帰国組。設備も日本の病院とさほど変わらない。驚かされるのは、一通り診察を受けると医師に「会計へ行って」と告げられることだ。会計窓口で数百ルピーを支払った後、再び診療室に戻り、領収書を提示して初めて注射を受けることができる。採血、投薬すべてそうだ。文字通り「カネを払わなければ、注射1本してもらえない」のだ。
この病院で受診すれば1回の治療費は数千ルピーを下らない。治療費の差は医療水準の差なのだろう。だが例え注射針の使い回しが行われていたとしても、薄暗い診療所のひげの医師を責める気にはならない。感染症の危険はあっても受診に50ルピーしか払えない人たちがおり、医師は懸命に、その人たちに治療を施していたように見えたからだ。
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