グローバルキャリア塾 連載コラム

アジアの熱風 (第3回)

第3回:「カースト」制度のゆくえ

英文毎日室長、ザ・マイニチ編集長

西尾 英之(にしお ひでゆき)

1963年生まれ。87年毎日新聞入社。福島支局、社会部などを経て03年から特派員としてパキスタン、インド、タイの各国に駐在。12年4月から現職。

The Mainichi

(2012年7月1日掲載)

インドの首都ニューデリーでタクシーに乗ったときのことだ。通りかかった街角で運転手の若者がこぼした。「ぼくはこの地域の出身だけど、努力してタクシーの運転手になったんだ。でも収入は少なく楽じゃないよ」。通りかかった集落には昔ながらの鍛冶屋が並び、道端で男たちが炭火を起こし鉄をたたいていた。

これだけならありふれた車内の運転手と客との会話だ。だが同乗していたインド人の知人は「『変わるインド』の一端ですよ。インドではカースト制度に縛られ、これまで『生まれ』で自動的に将来の職業が決まった。鍛冶屋のせがれが運転手になれるのは、社会の大きな変化です」と話した。

中国に次ぐ第二のアジアの経済大国として、インドは急速に変わり始めている。デリーの空港は近代的なターミナルビルに生まれ変わり、都心までは快適な地下鉄で行けるようになった。しかしインドの変化の本質は経済成長に伴う「見た目」の近代化ではない。長い間、カースト制度に縛られ固定化していた社会構造が、社会や経済の変化に伴い内側から揺らぎ始めていることだ。

「カースト」は一般的には僧侶、王族、平民、それに差別の対象となってきた「不可触民」にわかれた身分制度として知られている。実際にはそれぞれの階層でさらに細かく分かれ、世襲的な職業制度と結びついて社会に深く根を下ろしてきた。

インドはこの20年、世界とつながり急激な経済成長を遂げた。それを牽引するのがコンピュータ・ソフトウェア産業だ。最高学府「インド工科大」(ITT)の卒業生のほとんどはインドに拠点を置くマイクロ・ソフト社など国際的大企業に就職する。

ニューデリー郊外のオフィスで働くインドの若者たち=西尾撮影

インドの大学入試には被差別階層に対する優遇制度があるほどで、カーストが上位だからといって成績がかさ上げされるわけではない。「生まれ」にかかわらず本人の努力次第で、国際的大企業に就職して高い収入を得ることが可能になりつつあるのだ。

だが変化は社会に激しい競争をもたらしている。「努力次第ではい上がることができる社会」は、貧しいながらも能力があり、努力もできる子供にはいい。しかし大部分の「普通の子供たち」にとってはとても厳しい世の中だ。

インドの高校生は16歳で将来の進路を決める全国統一試験を受ける。ここで失敗すれば最も人気が高い電子工学系への進路は絶たれる。結果発表後、成績が思わしくなかった子供たちの自殺が全土で相次ぐ。

鍛冶屋の家に生まれれば鍛冶屋。酪農農家なら牛飼い。「生まれ」で将来が決まれば「しんどい努力」は必要ない。「カースト制度」にはある意味、努力しない人にも最低限の生活を保障する社会保障制度のような側面があった。インド社会には今、ちょっと知恵を働かせて人を出し抜けば、思わぬ金儲けができる雰囲気が満ち溢れている。そのせいで、アジアでも最もギスギスとした社会だ。

米国が主導する「グローバリゼーション」の流れに乗って、「カースト制度」という歴史的な悪弊は内部から崩れ始めてる。理不尽な差別や身分の固定化は消え去らねばならないが、そのことはインド人自身に大きな痛みをもたらすものでもあるのだ。

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